「あなたには、帰る場所がありますか?」
浅田次郎の『母の待つ里』は、そんな問いから始まるような小説だと思う。
物語に登場するのは、家庭も故郷も失いかけた三人。大企業の社長として成功しながら独身の松永徹、定年退職と同時に妻から離婚を告げられた室田精一、母親を看取ったばかりの女医・古賀夏生である。三人のもとに届いたのは、カード会社が提供する「理想のふるさと」への招待だった。
目次を見ると、「松永徹氏の場合」「室田精一氏の場合」「親友の忠告」「妹の助言」「古賀夏生博士の場合」と、それぞれの人生が描かれ、その後に「花筏」「憂鬱な月曜日」「青梅雨」「蛍」「無為徒食」「神の立つ日」「満月の夜」「返り花」「忘れ雪」と続いていく。
最初の「松永徹氏の場合」が特に面白い。
40年ぶりに故郷へ帰った松永を待っていたのは、86歳の母・ちよだった。しかし松永は、母の名前すらよく覚えていない。そもそも読者からすると「40年ぶりに帰ったのに、なぜ母の名前を知らないのか?」という強烈な違和感がある。
そして、その違和感は正しい。
ここは本当の故郷ではなく、カード会社が提供する「ホームタウンサービス」だった。村人たちはサービスのために客を迎え、ちよも利用者の「母」を演じている。つまり松永たちが大金を払って買っているのは、故郷そのものではなく、故郷の体験なのである。
これがなかなか現代的で、ちょっと怖い。
「ふるさと」まで金で買うのか、と最初は思う。しかし室田はちよに本気で懐き、墓までこの村に移したいと言い出す。夏生も、亡くなった母への後悔を抱えながら、ちよの言葉に救われていく。
そこで、このサービスを単なる詐欺やインチキとして笑えなくなってくる。
確かに母は本物ではない。村も演出されている。しかし、そこで過ごした時間によって救われた人間の感情まで偽物なのだろうか。
そして物語の最後、「忘れ雪」で大きな秘密が明らかになる。
ちよは、東日本大震災で実の息子一家を失っていた。だから彼女自身も、帰ってくるはずの「せがれ」を待ち続けていたのである。サービスでは利用者を「子供」として迎えていたが、それは単なる演技ではなかった。自分の子供を失った母親が、もう一度誰かの母親になろうとしていたのだ。
ここでタイトルの「母の待つ里」の意味が変わってくる。
最初は「母が待っている故郷」だと思っていた。しかし本当は、ちよ自身が「帰ってくる子供」を待っている里だった。そして松永、精一、夏生、さらに別の利用者だった田村健太郎は、血のつながった兄弟ではないのに、ちよの葬儀で「兄弟」のように出会う。
偽物の家族だったはずなのに、最後には本物の家族のような関係が残る。
この逆転が、この作品の一番面白いところだと思う。
特に「何があっても、母(かが)はお前(め)の味方だがらの」という、ちよの岩手弁の言葉には、サービスの設定や演技を超えたものがある。
結局、「母」とは血縁関係のことなのだろうか。
そう考えると、かなり哲学的な小説でもある。親子だから愛するのか、愛するから親子になるのか。
三人が求めていたのは、過去の故郷そのものではなく、「自分を待ってくれている人」だったのかもしれない。
そして面白いのは、最後に三人の人生そのものまで変わっていくことだ。精一はこの村への移住を考え、夏生は地域の医療に関わろうとし、松永も会社を辞めた後には戻ってきたいと思うようになる。偽物だったはずの「ふるさと」が、本当の人生の居場所になっていく。
ただ、個人的には、この作品の結末には少し怖さも感じる。
一泊五十万円もする「ふるさと体験」を買わなければ、自分を迎えてくれる場所を得られない人たちがいる。家族がいても帰る場所がない人もいる。逆に、血のつながりのない他人から「おかえり」と言われるだけで救われる人もいる。
そう考えると、この小説は単純な感動作ではなく、現代社会で「家族」や「故郷」が失われていくことへの、かなり切実な物語にも見えてくる。
「ふるさとを、あなたへ」という作品のメッセージは、優しいようでいて、実はかなり寂しい。
故郷は、本来なら買うものではない。
それでも、買ってでも欲しいと思う人がいる。
そして、その偽物の故郷で受け取った母の愛情が、本物だったとしたら。
『母の待つ里』が最後に残すのは、「本物とは何か」という問いなのだと思う。

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