「人を幸せにしたいのに、どうして不幸になるの?」
この一文だけで、だいたいこの小説の面白さが分かる。
藤崎翔の『イライザは救いたい』は、『お梅は呪いたい』シリーズから生まれたスピンオフ作品。昭和45年に放送されたという架空のアニメ「ハッピー魔法少女イライザ」のキャラクターグッズだった人形に魂が宿り、現代人を幸せにするために活動を始める。ところが、その善意がことごとく裏目に出て、人間からすれば「幸運の人形」どころか、ほとんど怪談になってしまう。
前作『お梅は魔法少女ごと呪いたい』で登場したイライザは、お梅とは正反対の存在だった。
お梅は「人を呪いたい」のに、なぜか人を幸せにしてしまう。
一方のイライザは「人を幸せにしたい」のに、なぜか人を不幸にしてしまう。
この見事な逆転がシリーズの魅力なのだが、イライザ単独の物語になると、そのズレがさらに面白くなる。
イライザにとっては、あくまで善意である。
「あなたを幸せにしてあげる」
ところが現代の人間社会には、昭和の魔法少女が想定していなかった価値観や事情が山ほどある。本人が幸せだと思っているものを勝手に変えようとすれば、当然ろくなことにならない。
この作品の怖さは、悪意のある呪いではなく、善意から始まってしまうところにある。
人間を不幸にしたい悪霊なら話は簡単だ。「こいつは悪い奴だから退治しよう」で済む。しかし、本人は本気で人を救おうとしている。それなのに結果だけを見ると、どんどん状況が悪化していく。
これって、現実の「余計なお世話」にも少し似ている。
本人のためを思って助言したら嫌われる。幸せになってほしくて何かを変えたら、本人にとっては迷惑だった。正しいことをしたつもりなのに、相手の人生を壊してしまう。
だからイライザは単なるドジな魔法少女ではなく、「他人を幸せにするとは何なのか」という、意外と面倒な問題を背負ったキャラクターでもある。
そして目次に並ぶエピソードを追っていくと、推し活、パパ活、地下アイドル、ホストなど、現代社会のちょっと危うい部分にも話が広がっていく。関連作品の紹介でも、こうした現代的なテーマがキーワードとして挙げられている。
ここで面白いのが、イライザの「幸せ」の基準が必ずしも現代人と一致しないことだ。
昭和の魔法少女なら「こうすれば幸せ」という価値観があった。しかし2026年の人間からすれば、結婚や出世、恋愛、家族、仕事が必ずしも幸せとは限らない。
むしろ「本人が何を幸せと思っているか」が重要なのだ。
このあたりは、お梅との対比でもよくできている。
お梅は人間を呪いたい。
イライザは人間を救いたい。
ところが結果は逆になる。
つまり、幸せと不幸せは、本人の意図だけでは決まらない。
このシリーズには、そこを笑いに変えてしまう上手さがある。公式紹介にも「愛と善意が不幸を呼ぶオカルトホラーコメディ」とあるが、まさにその通りだと思う。
そして、イライザ自身にも単純な「善良な魔法少女」では終わらないところがある。
人を幸せにしたいという純粋さがありながら、ときどき妙にブラックな部分が顔を出す。このあたりが、ただの天然キャラではなく、お梅と組ませても面白い理由なのだろう。実際、前作の読者レビューでも、お梅とは対照的な存在でありながら、イライザのブラックな一面がキャラクターとして効いているという感想が見られる。
結局、人を救うというのは難しい。
本人が助けを求めているならまだいい。しかし、本人が「これで幸せだ」と思っているところに、外から「あなたは本当は不幸なんです」と介入したら、それは救済なのか、それとも支配なのか。
イライザはそこを毎回のように踏み外す。
でも、その失敗があるからこそ、人間の側が自分の幸せを取り戻していくところに面白さがある。
呪いの人形お梅が、呪おうとして結果的に人を救ってしまう。
幸運の人形イライザが、救おうとして結果的に人を不幸にしてしまう。
この二人を並べることで、「幸せにする力」なんてものが本当に存在するのか、という話になってくる。
幸せは魔法で与えるものではなく、結局は本人が選び取るものなのかもしれない。
……まあ、そんな真面目なことを考えながら読む小説でもないのだが。
「幸せにしたい」という魔法少女が、人間にとってはほとんど呪いのように見えてしまう。
この設定だけで、かなり反則級に面白い。
そして何より、藤崎翔のこのシリーズは、オカルトなのに妙に人間臭く、笑っていたら最後には少しだけ人間の優しさについて考えさせられる。
人を救うつもりなら、まず本人が何を望んでいるのか聞いたほうがいい。
イライザには、その当たり前のことをぜひ覚えていただきたい。

コメント