「食べることは、生きること」なんて、あまりにも当たり前の言葉なのに、人生が壊れかけたときには、その当たり前すらできなくなる。
阿部暁子の『カフネ』は、そんなところから人が少しずつ生き直していく物語だ。2025年本屋大賞を受賞した作品で、物語は「第一章」「第二章」「第三章」「第四章」「終章」という構成になっている。
主人公は、法務局に勤める41歳の野宮薫子。長年の不妊治療がうまくいかず、夫から離婚を切り出された直後、最愛の弟・春彦まで29歳で突然亡くしてしまう。酒に逃げ、部屋も荒れ、仕事でも周囲と衝突する。そんな薫子の前に現れるのが、弟の元恋人・小野寺せつなだった。
ところが、せつなは薫子が想像していた「弟の恋人」らしい女性ではない。遺言書に自分への遺贈があっても受け取ろうとせず、愛想もない。しかも春彦の死について、薫子が知らないことをいくつも知っている。
第一章では、この二人の最悪ともいえる出会いから、少しずつ関係が変化していく。
薫子が体調を崩したとき、せつなは彼女を自宅まで送り、料理を作る。せつなは家事代行サービス「カフネ」で料理を担当していたのだ。薫子はその料理を食べることで、久しぶりに「ちゃんと食べる」ことを思い出す。
そして第二章以降、薫子自身もカフネの活動を手伝うことになる。
カフネは、単なる家事代行サービスではない。介護や育児などで疲れ果てている家庭を訪れ、掃除や料理をする。そこには、育児に追い詰められた母親、介護に疲弊した人、家族との関係に悩む人など、さまざまな「生活することに疲れた人」が登場する。
ここが、この小説のかなり好きなところだった。
誰かの人生を劇的に変えるわけではない。
部屋を掃除する。
料理を作る。
食事をする。
ちゃんと眠る。
そういう地味なことが、人間を生きる側へ戻していく。
第三章では、薫子とせつなの関係がさらに深まり、春彦の過去も少しずつ明らかになっていく。薫子は弟のことを「何でも知っている」と思っていた。しかし、実際には知らないことばかりだった。
そして第四章で、その認識が大きくひっくり返る。
春彦には、せつなとは別に恋人がいた。相手は男性の航一だった。
つまり、せつなは春彦の本当の恋人ではなかった。家族に対するカモフラージュとして、恋人のふりをしていたのである。春彦は自分の性的指向について家族に話すことができず、それでもせつなには事情を理解してもらっていた。
ここで、それまで「弟の元恋人」として見ていたせつなの存在がまったく違って見えてくる。
さらに、春彦が遺言書を残していた理由も判明する。自殺するつもりだったからではない。会社を辞め、人道支援の仕事に進もうとしていたため、万一に備えて遺言を残していたのだ。
ところが、その矢先に春彦は本当に突然亡くなってしまう。死因は心不全で、そこに自殺や事件があったわけではない。
「どうして死んだのか」というミステリーだと思って読み進めていたら、最後に待っていたのは「人は、自分の大切な人のことをどこまで知ることができるのか」という問いだった。
そして、せつな自身にも大きな秘密がある。
彼女は慢性骨髄性白血病を患っていた。
両親を亡くし、大切な人を失うことを繰り返してきたせつなは、「どうせ大切な人は自分から離れていく」という恐怖を抱えている。だから薫子とも一定の距離を置こうとする。
しかし、薫子はそこで引かない。
せつなが拒絶しても、薫子はせつなを放っておかない。最後には、パートナーシップ制度の利用や養子縁組まで含めて、一緒に生きていく方法を考えようとする。
このあたりは、薫子の「相手のために何かしてあげたい」という強さが、場合によってはエゴにもなっているのが面白い。優しさとは、相手の望みを尊重することなのか、それとも相手が拒否しても手を差し伸べることなのか。
薫子とせつなは、姉妹でも恋人でもない。それでも、最後には確かに家族のような関係になっていく。
タイトルの「カフネ」は、ポルトガル語で「愛する人の髪にそっと指を通す仕草」を意味する言葉だという。最後に二人がお互いの髪に触れる場面は、このタイトルの意味と重なって、とてもきれいだ。
個人的にこの小説で一番面白かったのは、「人を救う」という大げさな話を、料理や掃除という生活のレベルまで引き下ろしているところだ。
人間は、悩みを解決したから生きられるのではなく、とりあえず飯を食って、風呂に入って、眠って、次の日を迎える。その繰り返しの中で少しずつ回復していくことがある。
薫子自身も、最初は弟を失った悲しみから抜け出すことができなかった。しかしカフネで他人の生活を支えるうちに、自分自身の生活も取り戻していく。
そして最後には、「誰かを救う人」と「救われる人」という単純な関係ではなくなる。
せつなが薫子に料理を作ったように、今度は薫子がせつなを支える。
人は一方的に誰かを救う存在ではなく、救ったり救われたりしながら生きていく。
『カフネ』は、家族、恋愛、友情という既存の名前だけでは説明しきれない「誰かを大切にする」という感情を、料理と食卓を通して描いた小説だった。
読み終わったあと、豪華な料理よりも、誰かが自分のために作ってくれた普通のご飯のほうがありがたく感じる。
たぶん、人を生き返らせるのは、案外そういうものなのだと思う。

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