戦争は、終戦の日に終わるとは限らない。
上田早夕里『炎陽を撃て』を読んでまず感じたのは、まさにその恐ろしさだった。
物語の舞台は1947年初夏の中国山西省。日本が敗戦してから、すでに2年が経っている。それなのに主人公の加藤道雄たちは、まだ戦場にいる。日本軍司令部と国民党軍との密約によって、彼らは国共内戦に巻き込まれ続けているのだ。
ここだけでもかなり異様な設定だ。
普通なら「戦争が終わった。その後、兵士たちは故郷へ帰った」と考えてしまう。しかし現実には、戦争が終わったあとも大陸に残され、別の戦争に投入された日本兵がいた。作者自身も、作品の背景には山西省日本軍残留問題という史実があると説明している。
そんな加藤道雄の前に現れるのが、坂木少尉を名乗る男だ。
彼が持ち込んだ任務は、チベットで消息を絶ったアメリカ人科学者を捜索し、奪還すること。しかも、その科学者は重要な軍事機密を握っているらしい。
こうして、敗戦国の元日本兵たちが、チベットへ向かうことになる。
ここから物語は一気に冒険小説の顔を見せ始める。
隊商に紛れてチベットへ入り、過酷な自然環境を進み、やがてラサへ。ところが、敵は一つではない。共産党軍、国民党軍、アメリカ軍、そして戦後の日本で再び力を持とうとする勢力まで、それぞれが別の思惑を抱えている。
出版社の紹介にある「敵、敵、また敵。味方はいない」という言葉が、この作品の雰囲気をかなり端的に表していると思う。
そして物語の奥にあるのが、「第三世代の核兵器」をめぐる争いだ。
上田早夕里は、これまで『破滅の王』『ヘーゼルの密書』『上海灯蛾』で、戦争と科学の関係を描いてきた。『炎陽を撃て』もその延長線上にあり、科学が人類を豊かにするだけではなく、戦争によって巨大な破壊力へ変換されてしまう問題を扱っている。作者自身も、この作品で「科学と戦争」を扱ううえで避けて通れない題材に挑んだと語っている。
ただ、個人的に一番面白かったのは、核兵器そのものよりも、「敗戦した日本人がなぜ、まだ戦わされているのか」という部分だった。
彼らは英雄ではない。
戦争に勝つために戦っているわけでもない。
祖国から見捨てられたような状態で、それでも生き残るために銃を持ち続けている。
戦争には大義名分があるように見えて、現場の兵士からすると、昨日まで敵だった相手と手を組み、今日まで味方だった人間を疑い、命令されたから戦うということを繰り返すだけだったりする。
その状況が、チベットという異質な土地への旅と組み合わされることで、かなり独特の読書体験になっている。
そしてタイトルの「炎陽を撃て」という言葉も、読み終えてから考えると意味深長だ。
炎のように照りつける太陽を撃つ。
そんな不可能なことを命じられているようにも感じる。
戦争そのものを終わらせようとしても、巨大な政治や国家の思惑は簡単には止まらない。ひとりの兵士が銃を置いたところで、次の戦争が始まれば、また銃を持たされる。
結局、人間は何を撃っているのだろう。
敵なのか。国家なのか。自分自身なのか。
本作は歴史小説でありながら、かなりSF的な発想も含んだ冒険小説になっている。『戦時上海・三部作』を読んでいなくても単独で楽しめるが、前作群から続く「科学と戦争」というテーマを知っていると、より深く読める作品だと思う。
戦争が終われば、兵士は家に帰れる。
そんな当たり前の物語を、この作品は簡単に許してくれない。
敗戦から二年。まだ戦場にいる男たちは、チベットへ向かう。
その先に待っているのは帰国なのか、それとも新しい戦争なのか。
歴史の教科書では一行で終わってしまう「戦後」の、その裏側にこれほど奇妙で過酷な世界があったのかと思わされる一冊だった。

コメント