『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス)の内容とは?

『利己的な遺伝子』は、1976年に刊行され、進化を考えるときの「主役」を、生物個体や種ではなく遺伝子の側から見直した本だ。40周年記念版では全13章にわたり、「人はなぜいるのか」から始まり、「自己複製子」「遺伝子機械」「世代間の争い」「雄と雌の争い」「ミーム」「気のいい奴が一番になる」「遺伝子の長い腕」へと話が展開していく。

タイトルだけ見ると、「人間は利己的に生きるべきだ」という話に思えてしまう。しかし、実際にはかなり違う。ここでいう「利己的」とは遺伝子に意思や欲望があるという意味ではなく、自然選択を遺伝子のコピーが残るかどうかという視点から捉えるための、かなり大胆な比喩なのである。

ドーキンスが面白いのは、「なぜ動物は自分の子どもを守るのか」「なぜ兄弟を助けるのか」「なぜオスとメスは協力しながら争うのか」といった、一見すると利他的に見える行動まで、遺伝子の生存という視点から説明してしまうところだ。たとえば血縁者を助ける行動は、自分自身が直接生き残らなくても、共通する遺伝子のコピーが残ることにつながる。

つまり、進化の結果として「親は子どもを愛するようになった」という説明をする代わりに、「親が子どもを保護するような遺伝的傾向が、結果として残りやすかった」と考えてみる。人間の感情を否定する話ではなく、その感情がなぜ生まれたのかを別の角度から説明しようとするのである。

第5章以降では、攻撃、縄張り、家族、世代間の対立、男女の争いへと進んでいく。特に興味深いのは、「利己的な遺伝子」という考え方から、必ずしも利己的な個体ばかりが生まれるわけではないことだ。第10章の「ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう」や、第12章の「気のいい奴が一番になる」では、協力や互恵行動が進化の中で成立する可能性が論じられる。

ここが本書の面白いところで、「遺伝子が利己的なら、生物も全員が自分勝手になるはずだ」という単純な話ではない。むしろ、長期的には協力したほうが自分の利益になる場合がある。ゲーム理論的な発想とも結びつき、「いい奴が損をする」とは限らない世界が見えてくる。

そして第11章で登場するのが「ミーム」だ。遺伝子が生物から生物へコピーされていく自己複製子だとすれば、文化や思想、習慣などにも、似たような自己複製の仕組みを考えられるのではないか。現在では「ミーム」という言葉はインターネット上のネタという意味でも使われるが、その原型をここまで遡れるのも面白い。

さらに第13章「遺伝子の長い腕」では、遺伝子の影響を、その遺伝子が存在する身体の内部だけに限定しないという、さらに大胆な発想へ進む。

読んでいて感じるのは、人間中心に世界を見ることの居心地の悪さである。

「自分が生きるために遺伝子がある」のではなく、「遺伝子を残す過程の中で、自分という生物が作られている」と考えると、主人公と脇役が入れ替わってしまう。私たちは自分自身を人生の主人公だと思っているが、進化という長い時間軸から見れば、遺伝子を運ぶ一時的な乗り物にすぎないのかもしれない。

もちろん、「だから人間は遺伝子に操られているだけだ」と結論づけてしまうと、本書の面白さを半分しか理解していないことになる。ドーキンス自身、人間には遺伝的な傾向に逆らう能力があることを強調している。

生物学の本なのに、最後には「自分とは何なのか」という哲学の問題まで突きつけてくる。

人間は自分のために生きているのか。それとも、もっと長い生命の連鎖の途中にいるだけなのか。

この問いを一度でも考えてしまうと、普段何気なく見ている親子愛や恋愛、競争、友情まで、少し違って見えてくる。古い本なのに、妙に現代的で、そして少し怖い本である。

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