「この世は、あらゆる可能な世界の中で最善のものだ。」
そう教えられて育った青年が、戦争、虐殺、地震、宗教裁判、奴隷制度、詐欺、裏切り……と、世界の悲惨さをこれでもかというほど目撃したら、最後には何を信じるのだろうか。
ヴォルテールの『カンディード』は、そんな問いを猛烈な皮肉とブラックユーモアで描いた小説である。1759年に発表された作品で、副題は「あるいは最善説」。当時の哲学や宗教、社会に対する風刺を込めた、いわば哲学を題材にした冒険小説だ。
主人公カンディードは、ヴェストファーレンの男爵の城で暮らす純朴な青年。そこで哲学教師パングロスから、「すべては最善のために存在している」と教え込まれる。
第1章「カンディードが立派な城で育てられ、そこから追い出されたこと」で、早くもその平和な生活は終わる。カンディードは男爵の娘キュネゴンドとの恋が発覚して追放され、そこから世界をさまようことになる。
ところが、旅に出た彼を待っていたのは「最善の世界」とは思えない現実だった。
第2章では軍隊に入れられ、戦争の悲惨さを経験する。第3章では戦争による殺戮が描かれ、第5章では嵐と難破、そしてリスボン大地震に遭遇する。第6章では、その大地震を止めるためという奇妙な名目で宗教裁判が行われる。
ここでヴォルテールの皮肉が炸裂する。
人間が死んでも、「これは最善の世界だから必要だった」と説明される。災害が起きても、「これによって別の良いことが起こる」と説明される。
つまり、どんな悲惨な出来事が起こっても「最善」という結論を変更しないのである。
パングロスは何が起きても楽観的な哲学を捨てない。しかし読者から見ると、その理屈はもはや哲学というより、現実を無理やり説明するための言葉に見えてくる。
さらにカンディードはヨーロッパを飛び出し、第17章・第18章では理想郷エルドラドにたどり着く。そこには宗教対立も貧困もなく、黄金や宝石さえ珍しいものではない。
「これこそ本当に最善の世界ではないか」と思わせる場所である。
ところがカンディードは、そこに永住しない。愛するキュネゴンドを探すため、再び旅に出る。
このあたりが実に面白い。
ヴォルテールは単純に「世界は最悪だ」と言っているわけではない。理想郷さえ人間がそこで満足できるとは限らないという皮肉まで描いている。
第19章では、カンディードがスリナムで奴隷と出会う。そこで描かれる奴隷制度の現実は、この作品の中でも特に痛烈だ。「最善の世界」という哲学的な言葉では、とても説明できない苦しみが目の前に存在している。
その後、カンディードは悲観主義者マルティンとも出会う。パングロスの「すべては最善」という楽観論と、マルティンの「世の中はろくでもない」という悲観論。その両極端の考え方を登場人物たちにぶつけながら、ヴォルテールは「世界とは何なのか」という問題を笑いの形で問い続ける。
そして第30章「結論」で、物語は意外なところに着地する。
カンディードたちは小さな土地に集まり、それぞれ仕事をする。そして最後に示されるのが、
「われわれは自分の庭を耕さなければならない。」
という有名な言葉だ。
世界は最善なのか、最悪なのか。
神は存在するのか。
なぜ人間は苦しむのか。
歴史には意味があるのか。
そんな巨大な問題について、いつまでも議論するのではなく、とりあえず自分の庭を耕す。
この結末が、とても現代的に感じられた。
「すべては最善」と言ってしまえば、現実の苦しみを見なくて済む。一方で、「世界はどうせ最悪だ」と言ってしまっても、何もしなくて済んでしまう。
そのどちらにも逃げず、自分の手が届く範囲で仕事をする。
『カンディード』は、哲学そのものを否定しているのではない。むしろ、現実から離れた理屈が、現実に生きる人間の苦しみを見えなくしてしまうことを笑っているのだと思う。
250年以上前に書かれた小説なのに、「すべてには意味がある」「結果的には最善だった」と簡単に説明してしまう言葉への警戒は、今読んでも新鮮だ。
世界全体を理解することは、たぶん人間にはできない。
だからこそ、最後に残るのは壮大な哲学ではなく、自分の庭を耕すという小さな実践なのかもしれない。
『カンディード』は、世界を信じすぎる人にも、世界を諦めてしまった人にも読んでほしい。笑いながら読み進めているうちに、「じゃあ、自分はどう生きるのか」というところまで連れていかれる。
哲学書を読むつもりで構えなくてもいい。
むしろ、何も知らずにカンディードと一緒に旅に出てみるといい。
たぶん最後には、自分の「庭」がどこにあるのかを考えたくなる。

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