生命は、変わらないから生きているのではない。変わり続けているからこそ、生きていられる。
福岡伸一の『動的平衡』は、生命とは何なのかという、あまりにも大きな問いを分子生物学の側から考えていく本である。といっても、難しい生命科学の話を延々と説明する本ではない。脳の錯覚、食事、ダイエット、食品、病原体、ミトコンドリアなど、身近なところから生命の仕組みを考え直していく。
プロローグの「生命現象とは何か」から始まり、第1章では「脳にかけられた『バイアス』」として、人間が現実をそのまま見ているわけではなく、脳によってかなり都合よく世界を解釈していることが語られる。記憶についても、それを脳のどこかに保存されている固定された物質のように考えるのではなく、生命そのものの変化の中で捉えようとする。
第2章の「汝とは『汝の食べた物』である」も面白い。食べ物は単純に身体へ追加される材料ではない。消化によって一度ばらばらにされ、その構成要素が身体の中で別の形に組み替えられていく。つまり、自分の身体を構成している物質も、ずっと同じものではない。
この考え方は、シェーンハイマーという研究者の実験の話につながっていく。彼は体内の物質を追跡することで、身体の構成物質が固定されたまま存在しているのではなく、絶えず入れ替わっていることを示した。身体は「完成品」ではなく、材料を取り込み、分解し、組み立て直し続ける過程なのである。
だから、生命を機械のように考えることには限界がある。壊れた部品を交換すれば元通りになる機械とは違い、生物はそもそも自分自身を壊しながら作り直している。古いものを捨て、新しいものを取り込み、それでも全体としては「同じ自分」であり続ける。
この生命観を表す言葉が「動的平衡」である。
「生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能――それを、私は「動的な平衡状態」と呼びたいのである。」
ここでいう平衡は、何も動かない静止状態ではない。合成と分解、生成と消失が絶えず進んでいるのに、全体として一定の状態が保たれているという意味である。
第3章「ダイエットの科学」では、食べればそのまま太る、食べなければそのまま痩せる、といった単純な考え方にも疑問が投げかけられる。第4章「その食品を食べますか?」では、食品の一部分だけを取り出して、それを身体に良いとか悪いとか判断することの危うさが扱われる。
第5章「生命は時計仕掛けか?」では、生命を精密な機械として理解する見方がさらに問い直される。第6章ではヒトと病原体の戦い、第7章ではミトコンドリア・ミステリーへと進む。ミトコンドリアは、細胞の中でエネルギーを作る小器官だが、もともとは別の生物だったと考えられている。生命そのものが、異なる生命との共生や取り込みの歴史の上に成り立っている。
そして第8章「生命は分子の『淀み』」、第9章「動的平衡を可視化する」へ進むと、本書の中心にある考え方がはっきりしてくる。
生命とは、何か特別な「生命物質」が存在する状態ではない。分子が絶えず流れ込み、流れ出し、壊され、作られ、それでも全体として生命が維持されている状態なのである。
この本を読み終えて残る確信は、生命とは「物」ではなく「現象」なのだということだと思う。
人間の身体も、昨日の身体と今日の身体で構成する物質は同じではない。それでも自分は自分だと思っている。変わり続けているのに、同じものとして存在している。この一見矛盾した状態こそが生命なのだろう。
「動的平衡」という言葉は、単なる生物学上の用語ではなく、生命を見るための視点になっている。
生きているということは、何かを完成させて維持することではない。むしろ、完成を維持しようとせず、壊して、作り直して、そのたびに全体のバランスを取り直すことなのだ。
生命は変わらないために、変わり続けている。
この逆説が、本書を読み終えたあとにもかなり強く残る。

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