安部公房の『箱男』を読んでいると、だんだん「この小説はいったい誰が書いているんだ?」という気持ちになってくる。
頭からすっぽり段ボール箱をかぶり、外の世界を覗きながら暮らす箱男。元カメラマンらしい「ぼく」は、箱男についての記録をノートに書き始める。ところが、そのノートそのものが誰かに読まれているようであり、書いている「ぼく」と、書かれている「ぼく」の境界まで怪しくなっていく。
目次を眺めるだけでも普通の小説ではない。「ぼくの場合」「箱の製法」「たとえばAの場合」「安全装置を とりあえず」「鏡の中から」「供述書」「Cの場合」「続・供述書」「死刑執行人に罪はない」「Dの場合」「開幕五分前」「そして開幕のベルも聞かずに劇は終わった」……と、手記、写真、供述書、挿入文のようなものが次々に割り込んでくる。
しかも、箱男そのものが妙に現実的だ。
「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。」
この発想が、この小説の中心にあるように思う。人間は他人を見ることにはそれほど抵抗がない。しかし自分が見られる側になると、急に居心地が悪くなる。箱男はその関係を極端な形にした存在だ。箱の小さな覗き穴から他人を見る。しかし自分は見られない。
ところが、それだけなら単なる変人の話で終わる。安部公房はそこからさらに一歩進めて、「見る側」と「見られる側」は本当に固定されているのか、とひっくり返してくる。
物語の途中では、贋医者Cと看護婦が登場し、箱男の正体や箱をめぐる事件が複雑に絡んでくる。Cは軍医の名前を借りて医師として活動していた人物で、箱男の死体についても奇妙な供述をする。「供述書」と「続・供述書」が入ることで、さっきまで読んでいた物語そのものが、誰かの証言によって再構成されたものなのではないかと思えてくる。
そして面白いのが、「書いているぼくと、書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって」という章。ここまで来ると、登場人物だけでなく、小説そのものが自分自身を覗き始めている。
最後には、いよいよ箱男の正体とノートの真の筆者が明かされるのかと思わせる。しかし、安部公房はそこで親切に謎を解いてくれない。
むしろ「これまで書いてきたことに、まったく嘘はない。想像の産物ではあっても、嘘ではない」といった調子で、真相を明らかにするどころか、読者に「だったら何を信じればいいんだ」と突き返してくる。
そして結末の「確信」がすごい。
普通のミステリーなら、最後に犯人や事件の真相が確定する。しかし『箱男』では逆に、最後まで読んだことで「箱男は誰だったのか」という確信だけが揺らいでしまう。
「いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。」
結局ここに戻ってくる。
箱男は特定の一人の人物なのではなく、「見る人」と「見られる人」の関係から逃げようとする人間そのものなのかもしれない。箱をかぶれば他人から見られなくなる。しかし覗いている以上、自分もまた誰かを見る存在になる。そして小説を読んでいる自分自身も、箱男を覗いている側にいる。
だから、この作品では「箱男の正体が分からない」ということ自体が失敗ではない。むしろ、最後まで読んだ読者が「自分はいま誰を覗いているんだ?」と考えさせられたところで、小説がこちら側まで箱の中に引きずり込んで終わる。
安部公房は、謎を解く小説を書いたというより、「謎を解こうとしている自分自身が、すでに物語の中にいる」という状態を作ったのだと思う。
箱男とは誰なのか。
読み終わったあとに残るのは、その答えではなく、「もしかすると自分も箱をかぶっているのではないか」という、少し気味の悪い確信なのだった。

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