地震は建物を壊すだけではなく、人間の中にある「何か」を壊してしまうのかもしれない。
『神の子どもたちはみな踊る』は、1995年1月の阪神・淡路大震災を背景にした六つの短編からなる連作小説だ。ただし、地震そのものを描いた作品ではない。舞台の多くは東京など震災地から離れた場所で、登場人物たちも直接の被災者ではない。それでも彼らの心のどこかには、テレビで見た震災の映像や、説明できない不安が入り込んでいる。
目次は「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」「神の子どもたちはみな踊る」「タイランド」「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。
最初の「UFOが釧路に降りる」では、小村という男が、震災の映像を見続けていた妻から突然、別れを告げられる。妻は小村のことを「空気」のようだと感じていた。小村は北海道へ、妻が残した小箱を届けるために旅をする。
ところが、その旅先で起こることは現実的な離婚話の決着ではない。小村は女性と出会い、奇妙な夢のような体験をする。そして、自分の中に何かが欠けていたことを、遅ればせながら感じ始める。
「アイロンのある風景」では、順子という若い女性が恋人の啓介とともに、海辺で焚き火をする。順子は自分の中が空っぽだと感じている。そこへ画家のような男が現れ、三人で奇妙な時間を過ごす。
この作品では、焚き火が印象的だ。燃えるものを見つめながら、自分の中にある空虚さを確認するような時間。地震で何かが壊れたのではなく、もともと心の中にあった空洞が、地震をきっかけに見えてしまったようにも読める。
表題作「神の子どもたちはみな踊る」では、善也という青年が登場する。母親から「神の子」として育てられた善也は、自分の出生にまつわる奇妙な話を信じながら生きている。そして、地震のあと、母親から聞かされていた「耳の欠けた男」を追いかける。
しかし彼が最後にたどり着くのは、謎の男の正体ではない。
広いグラウンドで、善也は踊る。
ここで「神の子」という言葉も、信仰そのものも、少しずつ意味を失っていく。答えを発見するのではなく、身体を動かすことで、何かから解放されるような終わり方なのが面白い。
「タイランド」では、精神科医の女性がタイを訪れる。患者の話を聞くことには慣れている彼女だが、旅の中で自分自身の心の奥にあるものと向き合うことになる。ここでも、地震は直接描かれない。震災によって露出した「心の中の廃墟」を、異国の風景や怪異に置き換えているように見える。
そして「かえるくん、東京を救う」。
これは六作品の中でも特に奇妙だ。銀行員の片桐の部屋に突然、巨大なかえるくんが現れる。かえるくんは、みみずくんが東京を地震で破壊しようとしているので、自分と一緒に戦ってほしいと言う。
「東京を救う」という大事件なのに、舞台は片桐の部屋。しかも相手は巨大なみみず。村上春樹らしい、といえばあまりにも村上春樹らしい。
最後の「蜂蜜パイ」は、淳平という小説家と、大学時代からの友人高槻、その妻沙羅の物語だ。淳平は沙羅に想いを抱いているが、友人との関係を壊したくない。その一方で、沙羅の娘が「地震のあと」に見る悪夢に、淳平は何かを感じ取っていく。
そして彼は、娘に物語を語る。
熊の「むらさき」が蜂蜜を集める話。怖いものから逃げるためではなく、誰かを守るために物語を作るという話だ。
ここで六つの物語が、少しだけ一本につながる。
この本の「結末の確信」は、犯人が分かったとか、謎が解けたという種類のものではない。
むしろ、地震によって壊れたものを元通りにすることはできなくても、人間にはそのあとで何かを始めることができる、という確信だと思う。
六人の人生はほとんど交差しない。それでも全員が「地震のあと」に、自分の中にある空白、孤独、恐怖、罪悪感のようなものと向き合う。
そして最後の「蜂蜜パイ」で、淳平は物語を書くことによって、誰かを守ろうとする。
神がいるのか、地震に意味があるのか、なぜ人間は突然不幸になるのか。そういう大きな問いには答えが出ない。
それでも、物語を作ることはできる。人のそばにいることもできる。
だから最後に残る確信は、「世界は安全だ」というものではない。
世界は突然壊れる。それでも人間は、そのあとで踊ったり、旅をしたり、誰かに物語を聞かせたりする。
「神の子どもたちはみな踊る」というタイトルも、そんな意味に思えてくる。
神が救ってくれるから踊るのではない。
何も確かなものがない世界で、それでも生きているから、人間は踊るのだ。

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