『論語』は、人生をどう生きるべきかについて孔子が体系的に講義した本というより、孔子と弟子たちの会話や発言を集めた断片集である。読んでいると、二千年以上前の人間が、現代人とほとんど変わらないことで悩んでいるのが面白い。
学ぶことから始まる
冒頭の「学而第一」から「為政第二」「八佾第三」「里仁第四」と続き、全部で二十篇からなる。最初の「学而」では、学ぶこと、友人、親への態度、人間関係などが語られる。
「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや」
学んだことを繰り返し実践することに喜びがある、という意味である。
ただ、『論語』を「勉強しましょう」「親を大切にしましょう」という道徳の本だと思って読むと、少し違う。
孔子は、知識を持っていることそのものより、学んだことをどう自分の行動に結びつけるかを重視している。
孔子も最初から聖人ではない
「為政」には有名な「吾れ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず」という言葉がある。
十五歳で学問を志し、三十歳で自立し、四十歳で迷わなくなり、五十歳で天命を知り、六十歳で人の言葉を素直に聞けるようになり、七十歳で心のままに行動しても道を外れなくなった、という人生の振り返りである。
面白いのは、孔子自身も最初から完成された人物として描かれていないことである。
人間は年齢と経験によって少しずつ変わる。七十歳になってようやく「心の欲するところに従っても、矩を踰えず」という境地に至ったという。
つまり孔子でさえ、一生かけて人間になっていったのである。
「仁」とは何なのか
「里仁」以降では、「仁」という言葉が何度も登場する。
仁は一語では訳しにくい。人への思いやり、人間らしさ、人を人として扱う態度などを含む概念である。
ところが孔子は、「仁とはこれである」と簡単には定義しない。弟子から同じような質問をされても、相手によって違う答えを返す。
ここが『論語』の面白いところだと思う。
「正解」を覚えさせる本ではないのである。
相手の性格や置かれた状況を見て、何を言うべきかを変える。つまり、仁そのものだけでなく、仁をどう実践するかという判断も重要になる。
学ぶだけでも、考えるだけでも駄目
「為政」には、
「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」
という言葉もある。
学ぶだけで自分で考えなければ物事が分からなくなり、考えるだけで学ばなければ独りよがりになる、という意味である。
これは今でもそのまま通用する。
知識を詰め込むだけでも駄目だし、自分の頭で考えているつもりでも、知識がなければ危うい。
この二つを往復することが「学ぶ」ということなのだろう。
社会の中でどう生きるか
「八佾」では礼や政治、身分秩序について語られる。
ここでいう「礼」は単なる作法ではない。人間関係や社会秩序を保つための規範である。
孔子にとって、能力があれば好き勝手に振る舞っていいということにはならない。自分の立場を理解し、その立場に応じて振る舞うことが重要だった。
「述而」では「述べて作らず」とされる。孔子は、自分がまったく新しい思想を発明したというより、古い文化や知恵を学び、それを後世へ伝える人物として自分を位置づけている。
また「泰伯」以降では「君子」という言葉が何度も登場する。
君子とは、単純に身分の高い人という意味ではない。人格的に成熟した人を指す言葉である。
知識だけが多い人でも、権力を持つ人でもない。自分を律し、他人との関係の中で適切に振る舞える人である。
自分がされたくないことを人にしない
「衛霊公」には、
「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」
という有名な言葉がある。
自分がされたくないことを、他人にしてはいけないということだ。
非常に単純だが、実際に守るのは難しい。
自分にとって正しいことと、相手にとって正しいことは違う。だから『論語』では、単純なルールだけではなく、相手や状況を見ることが繰り返し求められる。
聖人というより、かなり人間くさい
最後まで読むと、孔子の教えは案外まとまりがない。
「こうすれば必ず幸福になれる」という人生攻略法があるわけではない。
弟子が質問し、孔子が答える。その答えも相手によって違う。政治についても、人間関係についても、勉強についても、同じ原則を機械的に適用するわけではない。
さらに面白いのは、孔子自身がかなり人間くさいことである。
弟子を評価し、怒り、嘆き、政治家に期待し、うまくいかなければ失望する。自分の理想が世の中に受け入れられないことも嘆いている。
「道が行なわれないなら、いっそ筏に乗って海へ出よう」という趣旨の言葉まである。
聖人が高いところから人間を説教している本ではない。自分の理想と現実の社会との間で苦労しながら、それでも人間はどう生きるべきかを考えている人物の言葉なのである。
『論語』の最後に残るもの
そして最後まで読んで残る確信は、「人間として完成すること」が目的なのではない、ということだと思う。
学び、考え、失敗し、人と関わり、自分の未熟さを知る。その繰り返しの中で、少しずつ振る舞いを変えていく。
孔子は七十歳になってようやく、心のままに行動しても道を外れない境地に達した。
ならば、若いうちから立派な人間になれるわけがない。
『論語』は、正しい人間になるための完成されたマニュアルではない。
むしろ、人間は死ぬまで完成しない。それでも学び、考え、他人と関わりながら、自分の行動を少しずつ修正していくしかない。
二千年以上前の言葉なのに、最後に残るのはずいぶん現代的な結論である。
立派な人間になる方法ではなく、立派でない自分をどう修正し続けるか。
『論語』が今でも読まれる理由は、案外そこにあるのかもしれない。

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